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であった。つまり、『誹風柳多留』初篇から二四篇までは、独詠吟の句集ではなく、川柳評万句合における付句集ということになり、柳多留が独詠吟の句集となるのは二五篇以後のことになる。
柳多留の編纂発行は、川柳評万句合の興行にも多大な影響を与えずにはおかなかった。一時的には投句数が増加したが、その投句は次第に前句を無視し始め、独詠吟の色彩を濃くして行ったので、前句そのものが無意味なものになってしまったのである。
やがて万句合は、先にも触れたように、安永五年末から、句題の合印を省略し、天明七年からは、前句すら記載しなくなってしまうのである。最早、前句付興行とはいうものは、その刷物は付句の勝句披露ではなく、独詠吟の勝句披露になってしまっていた。にもかかわらず、点者柄井川柳は、前句付にこだわり続け、没する前年の寛政元年まで前句付興行を続け、前句付点者としての体面を持ち続けたのであった。
さて、柳多留に話を戻すが、独詠吟句集となった柳多留は、川柳の大衆化にともない、次第にその精彩を欠いて句の質を落し、言語遊戯に堕して行く。そして、天保五年(一八三四)の一三二篇では四世川柳が、俳風狂句元祖と称するなど、完全に低俗な狂句となってしまうのである。
『誹風柳多留』は、天保一一年に一六七篇をもって終刊となり、その後『新編柳多留』などが刊行されるが、それらは惰性の産物で、もはや当初の活力を蘇らせる意志も力もなく、なんら見るべきものはない。
この惨状を回復し、「川柳」の本来の姿への復興は、明治中期、現代川柳作家達に依って提唱された「狂句百年の借りを返せ」という意識革命運動を待たねばならなかった。それは、図らずも古川柳研究の幕開けでもあったのである。

 

 

 

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